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魅せられて

2022/04/30 19:02:05

 雨があがり、また暖かな陽射しが戻ってきました。
街路樹のつつじがとても綺麗に咲いています。
赤、濃いピンク、薄いピンクに白。それぞれが太陽の光をあびて、これ以上はないという美しい色を魅せてくれています。
そんななかでも、なぜか白いつつじがとても印象的でした。まるで「花嫁の白」のような純白に、他の色には感じられない媚びることのない気高さを見たように思いました。

 ところが、この白い花の美しさはそれ単体よりも、葉の緑と枝ぶりとのバランス、隣に咲くピンクの花がが添えられることにより、さらにいっそう引きたつように感じられました。
単なる街路樹のつつじなのですが、何だか盆栽の世界観と似ているようにも思いました。

 今や世界の共通語「BONSAI」となるくらい愛好家が多いといわれていますが、盆栽はただ鉢に木を植えればいいというわけではありません。ありのままの自然をそのまま見せるのではなく、自然の美しさや厳しさを凝縮して魅せることができているものが良い盆栽といわれています。
 
 そのことを思うと、すっきりとまとまったフォルムに剪定された街路樹のつつじにもまた、自然に対する深い思いが表現されていたのかもしれません。
歩いていたときにふと見ただけのつつじではありましたが、その姿や佇まいにじゅうぶんに魅せられてしまいました。

雨の日にもの思ふ

2022/04/29 17:09:17

 ゴールデンウィークの初日だというのに、ちょっと残念な雨降りの日となりました。
風も強くて、傘をさすと風の力に押し戻されそうです。こんな荒れ模様の天気は、久しぶりのような気がしました。
 雨の滴がガラスのウィンドウをスルスルとつたって落ちる様を眺めていると、ぼんやりともの思いに耽ってしまいました。
 
 今朝の新聞の手記に、お茶のことが載っていました。
立春から数えて八十八日目を八十八夜というそうです。お馴染みの唱歌「茶摘み」「夏も近づく八十八夜…」で知られるその日は、今年は5月2日となります。
歌詞にもあるように、初夏を迎える時期です。

 夏も近づく新緑の季節、乾ききった田には水が満たされ徐々に潤いをとりもどしながら、緑いっぱいに輝きを放つことでしょう。
そして新茶の香しい緑に夏の訪れを感じながら、美しく艶やかだった桃色の春の名残りを惜しむことでしょう。
春から夏へ、桃色から緑色へ。
移ろいゆく季節のなかで、いったりきたりしているはっきりとしないところに、また春と夏の饗宴のような楽しみもあります。

 何だか、緑茶が飲みたくなってきました。
八十八夜に摘んだ茶葉は長寿の薬ともいわれているそうです。
香りやさしく、ほのかに甘味のある新茶は、きっと体にも心にもしみわたる美味にちがいありません。
八十八夜はまだ少し先ですが、それまで大好きなコーヒーを少し控えて毎日緑茶を飲むのもいいかなと思いました。
過ぎゆこうとしている春を惜しみながら、新しく訪れる夏を感じながら…。

是もまた夢

2022/04/27 22:18:26

 目の前には、大きな体を横たえてゆったりくつろいでおられる仏様がいらっしゃいました。
見上げると天女の舞、耳元でささやくのは天界の美しい音楽。
そのあまりの心地よさに、仏様はきっと夢をみておられるのでしょう。

 ここは高台寺の利休堂。
天井や壁に描かれた絵は、「これを極楽浄土というのだろう」と思わせる邪念のない穏やかな世界でした。
この利休堂で、お能を観させていただきました。能舞台ではないところで観るのは初めてでした。
能楽師のひとつひとつの動きをすぐ横に感じることができ、静と動の連なりのなかに、主人公の生き様が見えるようでした。
きっと能楽師は、人生という夢を舞っていたのでしょう。

 雨上がりの庭に出ました。
雨に濡れてより鮮やかに光る新緑を、とても眩しく感じました。
高台寺にはなぜか、荘厳さというよりもしっとりと濡れた新緑のような柔らかな優しさがあるように思います。それは、このお寺がねねという女性の寺であるせいかもしれません。
ねねは豊臣秀吉の妻であり、高台寺は秀吉への愛が込められたお寺です。
愛の寺に眠るねねもまた、夢をみていることでしょう。

 高台寺には「夢」と書かれた衝立があります。
「心こそ 心迷わず 心なれ 心に心 心ゆるすな」
どんな時にも自分を見失わず、心の主人公となり、自分の心をしっかり保って生きていく、そんな姿そのものが振り返ると「夢」なのかもしれません。
「夢」だからこそ、愛に溢れ、慈愛に満ち、美しいのではないかと思いました。

胎内めぐり

2022/04/03 19:25:04

 桜満開、桜の話題も花盛り、でも今日の雨で少し花びらが散ってしまうのはちょっと寂しいです
 また少し寒い日が続いていますが、その寒さに負けず朝から京都の清水寺に行ってきました。
といっても、私のお目当ては随求堂の胎内めぐりです。

 清水寺は有名ですが、胎内めぐりはそれほどは知られていないスポットです。
清水寺の本尊(千手観音菩薩)の下にある光すら入らない真っ暗な空間に入り、その中を歩き、外に出てくることで生まれかわることができるといわれています。
本尊の菩薩様は、どんな願いや求めにも、すぐ随って叶えるよう働いてくださる大悲の仏だそうです。

 どんなお願いも叶えてくれるというお話を聞き、早速、願いごとを3つ心に秘め菩薩様のお腹の中(胎内)に入りました。
入口から真っ直ぐのびる階段を降りると、もう菩薩様のお腹の中でした。真っ暗で何も見えませんでした。
壁にめぐらされた大きな数珠のみを頼りに掴みながら、奥へ奥へと進んで行きました。
つまりは、数珠が母親の臍となり、この暗い空間は、母親の身体そのものを表しているそうです。

 しばらくしても目が慣れるどころか、真っ暗なままでした。不安で不安でたまらないなか、外に出るためには手探りで前に少しずつでも進まなければいけません。
そんな状態になったとき、目、耳、鼻、舌、身体の五感は研ぎ澄まされたようになり、意(心)は母をひたすら慕う赤子のようでした。
 そうしているうちに、少し先に一点の光明を見たとき、身体の芯から嬉しさのみが込み上げてくるような気持ちになりました。
何だか、余計なもの無駄なものは胎内に残して、新しい素の自分が生まれ出でたような感覚で外の明るい光の中に立っていました。

 お釈迦様は、明けの明星をみて悟りを開かれました。
私自身にもほんの少しではありますが、悟りがあったような気がしました。
数珠を頼りに前に進むしかない暗闇で、普段は感じることのない内に秘められた自らの光を感じたようでした。
そんな清々しい気持ちで明るい世界へと新生し、早速
3つのうちの1つの願いが叶ったことは、やはり菩薩様の大悲ではないかと思いました。 

夢の道

2022/04/01 19:07:15

  久しぶりに、アルコールありの食事に行きました。そこは、まさに「うなぎの寝床」でした。

 うなぎの寝床とは、間口が狭く奥行きが深い建物や場所の喩えに使う言葉です。
しかし今では、京都の町屋の代名詞のように使われています。
 そのお店は、通りに面した間口の狭い入り口から長い石畳の路地を通り抜けたそのつき当たりにありました。
少し先には東山連峰の優しい稜線、近くには鴨川のせせらぎと風趣豊かな味わいでした。
 ガヤガヤしたものとは分断された奥まった世界には、居心地のよさが待っているような気がしました。

 京都には、間口の狭い町屋風のお店がたくさんあります。通りに面したわかりやすい場所にはあるのですが、間口があまりにも狭過ぎて、お目当てのお店に気づかず通り過ぎてしまうことがよくあります。
 なぜ京都には、このような建物が多いのでしょうか。
それは、江戸時代の間口税のせいらしいです。
家の間口、3間ごとに税をかけるというものです。
そのために、間口を小さくして税を少なくしようとしたそうです。

 節税のためとは知りませんでしたが、この町屋の宅地割はなかなか味わい深いものだと思えるようになりました。
表から裏まで通り庭が貫き、並行して居間、坪庭などを造る町屋は、間仕切りをはずせば風通しがよく、夏も涼しく過ごせます。
表構えは慎ましく、内に繊細な美を秘めているところに京都らしさを感じます。
長い石畳の向こうにはいったい何があるのだろうと、
のぞいてみたくなる気持ちにもさせてくれます。

 ちょっとのぞいてみたかったお店。
慎ましい表から、長い長い石畳を歩きました。
ひとりで歩くのがちょうどよい幅の路地を歩いていると、都会の喧騒からだんだんと離れ別世界へと向かっているような気分になりました。
ドキドキしながらやっと奥へとたどり着いたところには、季節感あふれる自然を借景にした雅な世界が待っていました。
表から裏まで真っ直ぐ続く石畳は、まるで風雅を楽しむ都人の世界へと繋がる夢の道のようでした。

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